日動火災いわき中央代理店より旅行その2


八幡太郎と石清水八幡宮

 今週は二回目の旅行記として大胆にも福島空港から飛行機で京都の旅をしてきました。前回のホームページにおいて「吹く風をなこその関と思えども道もせに散る山桜かな」と和歌に詠んだ清和源氏の武将・源義家公(通称、八幡太郎)の元服したところが石清水八幡宮ということでしたのでどうしても現地に赴きたく計画を立てた次第であります。まづ、今回はJTBに行き航空券と宿の予約をしその先は出たとこ勝負で京都の旅をしてみました。福島空港から大阪伊丹空港到着、モノレールで終点門真市へ、そこから京阪電車で八幡市(はちまんしではありません、やわたしと読みます)下車駅前にあるケーブルカーで男山山頂へそこから徒歩5分ほどのところにあります。福島空港10時発で3時間15分程かかりました。石清水八幡宮は鶴岡八幡宮の様に大きくはありませんが。さすが歴史の重さを感じさせます。秋田書店の歴史と旅によりますと「八幡市の大阪寄りの八幡高坊というところに、標高143mの山がある。”男山”という。その山頂に鎮座する”石清水八幡宮”は、むかし、武人たち、それも源氏の武将たちの守護神として、あがめられた神社である。・・・・・・・・では、源氏が、なぜ石清水八幡宮を守護神にしたかといえば、その理由は二つある。ひとつは、応仁天皇が戦勝の神であるということと、いま一つ、行教の奉上によって、八幡宮を創設した”清和天皇”が、源氏の嫡祖であったからだ。源氏の氏祖である源経基は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子”六孫王”が源姓をたまわり経基と称したといわれている。永承元年(1046)、源頼信が、八幡大菩薩に、源氏一門の繁栄を祈願したことにはじまり、頼信の子頼義が、永承六年におこった”前九年の役”、つまり陸奥の安部頼時の反乱をしずめたのは、この八幡大菩薩の加護であったとして、康平六年(1063)に、石清水八幡を相模国由比に勧請した。それ以来、全国に八幡信仰が広がってゆくわけであるが、その信仰をいっそう深めたのは、なんといっても、頼義の子義家である。義家は七歳のとき、石清水八幡宮の社前で元服し”八幡太郎”と称した。武の神である八幡神にあやかろうとして、名づけられたものである。じじつ、義家は、その名に恥じぬほど大活躍した。」ということです。取材当日は七五三でしたので子供たちがたくさんお参りに来ていました。

飛行神社

 次は石清水八幡宮の参道を降りて200mほど歩いたところにある飛行神社というところに行ってきました。飛行神社由緒略記によりますと「飛行神社を創建したのは、明治二十四年四月二十九日香川県丸亀の歩兵第十二聯隊練兵場に於いて、日本人として最初のゴム動力によるカラス型飛行機の飛行に成功した愛媛県八幡浜出身の二宮忠八です。慶応二年(1866)六月、海産物を商う二宮家の四男として出生。少年時代忠八は大人並の考えを持つ変りものとみられていた。忠八十二歳のとき、父がこの世を去り、働くこととなる。明治十三年伯父の薬種商の手伝いをするうち、物理や化学に深い興味を持ち、また測量技師の手伝いをするなど働きながら独学で得た知識を生かして、独創的で奇抜な凧を作り人々の感心をよび「忠八凧」と呼ばれた。明治二十年(1887)十二月、丸亀の歩兵第十二聯隊付の看護卒として入隊、明治二十二年十一月四国山岳地帯で行われた秋季機動演習中現在の香川県中南町樅ノ木峠で昼食をとっていると、烏が四〜五十羽残飯を求めて谷を横切り、翼を広げ固定翼で滑空しているその姿に興味をしめし観察する。それが忠八の空を飛ぶ機械発明の大ヒント(飛行原理の発見)となる。・・・・・・・・・・」ということで航空安全、旅行安全等どんな方がいらしゃるのかとお聞きしたところ航空会社のパイロットの方が多いそうです。神社の前にはF104J栄光のジェットエンジンがかざってありました。


浄土信仰と平等院

 次は八幡市駅から京阪電車で約40分京阪宇治宇治駅下車で駅前から歩いて10分ぐらいの所にある平等院です。秋田書店の歴史と旅によりますと「・・・・・宇治の地に平等院が姿をあらわしたのは、ちょうどその永承七年のことである。平等院はもと”御堂関白”藤原道長が、宇多天皇の孫にあたる源重信から買い求めた別荘であった。それを仏寺に改めたのは道長の子頼通であり、平等院と命名したのも頼通である。頼通はまず別荘の寝殿を念誦堂に転用するとともに、本堂とすべき伽藍の建設に着手した。この本堂が、いまも国宝として威容を誇る鳳凰堂であり、着工の翌天喜元年(1053)に竣工をみた。・・・・頼通がこのように新寺院の本尊として阿弥陀如来を選んだのは、決して気まぐれや一時の思いつきではなかった。絶望的な位置づけをされた末法の世において、人々からもっとも救済願望を寄せられたものに、浄土信仰がある。浄土信仰はたとえ末法時であっても、帰依する衆生西方極楽浄土に救いとってくれるということを説き、その教主とされたのが阿弥陀如来であった。だからこそ、頼通も浄土信仰を信心し、鳳凰堂に阿弥陀如来を安置したのである。頼通はまた、単に信心するだけでなく、平等院をこの世の極楽浄土に仕立て上げようと腐心し、伽藍配置を工夫したり浄土式庭園を営んだりと、さまざまにに手をつくした。その試みはかなり成功したようで、たとえば「後拾遺往生伝」に次のように歌がみえる。 極楽いぶかしくば 宇治の御寺を礼へ 極楽の存在が信じられないなら、宇治の御寺=平等院にお詣りしてみるがよい、というわけだ。・・・・」ということで初日の詣で先は打ち止め京都のホテルへ京阪電車に乗る。


鞍馬寺と源義経

 二日目はご前六時起床7時に食事を済ませ7時半には京阪電車に乗り一路鞍馬山にある鞍馬寺へ向かう。九時鞍馬駅到着、そこから徒歩5分で鞍馬寺に到着と思ったら本堂まで上り坂の山道を1キロメートルほど歩かされた。汗びっしょりまいった。他の皆さんはケーブルカーなんぞに乗っておった(くやしー、早めに教えてください)。源義経は八幡太郎のひひ孫にあたる。福島市飯坂の医王寺が義経との関係で有名。さて、旅と歴史によりますと「・・・・若き日の源義経、牛若丸がこの鞍馬寺の背後の鞍馬山にはいり、天狗の助けをかりて武術修行にはげんだというのが有名な伝説になっている。牛若丸が鞍馬寺にはいったことについては鎌倉幕府の正史たる「吾妻鏡」が「継父一条大蔵卿長成の扶持によって、出家のために鞍馬に登山す」としているから、まずは事実と見ていいと思う。出家するなら、お寺はたくさんあるのに、なぜ鞍馬寺が選ばれたのか、これが問題になってくる。なぜなら鞍馬山には、ふるくから天狗が住んでいて、とても危険な所とされていたからだ。天狗が住んでいるということ、それを逆手に取っての鞍馬入りだったのではないだろうか?平家の残党狩りは厳しい。御曹司牛若丸が安全に身を隠せるかどうか、なんの保証もない。とすれば、牛若丸は二度とふたたび政治の世界には顔を出さないという姿勢を平家側にみせつけるためにも、あえて天狗の住む鞍馬山へ入ったのではないか。「義経記」によると、鞍馬の天狗たちは牛若丸を歓迎した。世が正しかったときの鞍馬山は、人間と天狗がいっしょに住んでいた。それなのに、世が乱れると人間はみな山を降りていき、天狗だけが住むようになってしまったのだ。つまり牛若は、まず鞍馬山を昔の正しい山に戻すために戻ってきた人間の第一号という役割を負うことになった。・・・・天狗のモデルは修験の行者であると言ってしまうと味もそっけもなくなるが、牛若が修験の行者たちとともに修行に励んだのだと見るのは、事実にちかいといっていい。」ということで帰りはケーブルカーのお世話になりましたよ。京阪電車に乗り次は牛若丸と弁慶の五条大橋にいって見ました。でも、牛若と弁慶のかわりに橋は車でいっぱいでしたね。


桓武天皇と平安神宮

 次は京阪電車丸田町下車徒歩20分のところにある平安神宮です。歴史と旅によりますと「・・・その昔、平安京の大内裏に造営された朝堂院は、朱雀門をはいった所に位置した左右両翼に栖鳳・翔鸞の両楼をかかえた重層の応天門、その北の会昌門をはいると禁内(竜尾道南庭)があって、その正面に一段高く竜尾壇がつくられ、朝堂院の正殿である大極殿が建っていた。延暦十五年(796)の元旦、桓武天皇はこの大極殿中央にすえられた高御座にあって、群臣の朝賀を受けたのである。・・・」、「・・・そもそも、この平安神宮の創建は、明治二十八年(1895)正月が、桓武天皇が平安京の大極殿ではじめて元旦の拝賀を受けて千百年にあたるので、これを記念して、平安奠都紀念祭を挙行する計画から始まった。明治二十五年正月、京都実業協会において会員碓井小三郎がこのことを提案し、協会はこれに賛成して、京都市参事会、京都市会での決定をみ、市会では内貴甚三郎を委員長とする委員会が設けられ、紀念祭の法案の作成にはいった。同二十六年、京都府がこのプランに加わると、平安神社創建の計画がたてられることになったのである。東京でも近衛篤麿を会長とする平安奠都紀念協賛会が創立され、寄付金が集められて、明治二十七年、この協賛会が、平安神社創立を出願し許可を得た。七月には平安神宮と称し、官幣大社に列せられることが決定した。鎮座式は明治二十八年三月十五日に挙行された。平安神宮は木子清敬・伊東忠太による設計で、平安京の朝堂院(大内裏の正庁)を模して、その約八分の五に縮小したものにした。二層の楼門は応天門、拝殿は大極殿を模しており、この拝殿は博覧会の紀念殿として建てられたもので、入母屋造り、碧瓦本瓦葺で棟の東西に二つの鴟尾が輝いている。」というわけですが実際に見てみるとすごいの一言です。また、社殿背後の六千坪の神苑は「東神苑は栖鳳池、中神苑は蒼竜龍池、西神苑は白虎池を中心にした回遊式庭園である。舟遊式を兼ねる栖鳳池には橋殿が架けられ、鶴島・亀島が浮かび、西岸に釣殿風の貴賓館が建てられ、春の桜、初夏のかきつばたは目をみはらせるものがある。」ということです。本に書いてあるとおりですね。


京都国立博物館

 最後はタクシーに乗り平安神宮から京都国立博物館に行ってみました。「京都国立博物館は、日本の古都、京都に置かれた国立博物館施設として、日本・東洋の多数の古美術品や、考古資料などの文化財を収集・所蔵する一方、展示・調査・研究・教育のさまざまな活動を通じて、内外の人々に、日本・東洋の伝統的な美術や文化をよりよく理解していただけるよう、長年にわたり努力してまいりました。」といっているように中に入ってみると多数の美術品・絵画・彫刻などすばらしいものばかりありました。ひととうり見るのに約一日くらいはかかるものと思われましたが、ゆっくり見るのは次回にして駆け足で回ってきました。とにかく京都にきたらここによるべきです。というわけで36時間の旅でしたが京都駅から伊丹空港へのリムジンバスに乗り飛行機で帰ってきた次第です。


さて、今週の問題です。写真の映像はどこでしょう


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